《物草拾遺》
道に落っこっているものを拾って歩く…
人間の愛憎とか哀歓とかいった感情から極力遠去かって、人問でも物体でも、なるべく無機的なモノ白体としてつかまえて表現してみたいということなのである。そこから一流の思想や哲学が生まれてくるとも思えないが、一切の思い入れや臆測をまじえずにモノに対すると一体どういうことになるか、そのへんのところを手さぐりにさぐってみたいというのが私の考えなのだ。そのモノもなるべく日常的、ありきたり、どこにでも転がっているもののほうがいい。それも私は拾って歩くのである。
昔、私たちの子供時分、大きな屑籠を背負って、"くずい-おはらい"といって歩く屑屋さんというのがいた。それはいちおうまともな商売で、例の落語の「らくだ」に登場する久六さんとかいった屑屋がそれで、その下に、たぶん下だと思うけれど何にもいわずに屑籠を背負って道端に落っこっているものを拾って歩く屑屋があった。私のはそのほうである。道に落っこっているのが物草である。質屋にもっていく物をシチグサといい質草とも書くが、質種が正しいんだろうと思う。
といったことで、物草であり拾遺であって「物草拾遺」という平安期とも江戸期とも現代とも、なんとでも解釈自由な画題となったのである。
*日本カメラ 1980 12月号から1982 9月号まで掲載 モノクロ [source]